現場最前線の今
強度行動障害支援の現場(4)/中山清司(連載152)

1980年代から90年代にかけて、自閉症や知的障がいの人たちが示す、激しい破壊や自傷、不眠・異食といった強度行動障害への対応が、当時の福祉施設や養護学校における喫緊の課題となっていた。
不十分だった自閉症の障がい特性に基づく支援
当時を振り返ると、その対応はもっぱら対症療法的であり、さまざまな「○○療法」や支援者レベルの経験主義による場当たり的な対応であったと、筆者は総括する。
我が国の自閉症支援の第一人者である児童精神科医佐々木正美先生は、次のように当時の状況を振り返っている。(佐々木正美先生 講演会の記録「わたしの中の自閉症療育論の歴史―自閉症の人々と30余年」(2012年4月):よこはま発達クリニックHPより)
「東大のデイケアは行動療法です。小児療育相談センター精神衛生相談室は絶対受容のプレイセラピーです。全く相反する方法ですが、どちらを見ても、納得できるような成果に思えませんでした。どちらに対してもある意味で否定的です。けれども他に方法がありません。そういう中で、統合保育や統合教育にはちょっと灯りが見えたように思ったのです。(中略)そしてわかったことは、統合教育でうまく行っているという場合のうまさというのは、自閉症の子どもがよくなって行くのではないのだということでした。」
このように佐々木先生は、当時の行動療法や絶対受容、統合教育といったやり方は、自閉症の子どもには効果がなかったと正直に述べている。
その理由は今となればよくわかるのだが、30年前の当時の現場スタッフたち(筆者もその一人だったが)には、なすすべがなかった。なぜなら、私たちは自閉症のことがよくわからないまま、その行動面だけを見て、どう抑えるか、どう止めるかに終始していたからだ。
全盲の方がいたとしよう。その人は、本が読めないでいる。そして、私たちは、その人が本が読めない理由をすぐに了解することができる。重度の視覚障がいがあって本が読めないのだと。そして、全盲の方でも本が読めるようにと、周囲は点字や読み上げソフトなどを用意することだろう。
しかし、施設で暮らす自閉症の人が、給食の前に、30分でも1時間でも手洗いをしていた場合、これまで私たちは、その事情や原因を自閉症の障がい特性から理解することができないできた。あるいは、それぞれのよって立つ理屈や経験に基づいてバラバラに解釈し、バラバラに対応してきたのだと言える。
例えば、「好きなんだから、好きなだけ手洗いをさせてもいいじゃないか」「水を出しっぱなしにするのはよくないから、兎に角やめさせるべきだ」
「本人に直接注意しても、すぐにはやめてくれない」「いや、私の場合は、結構言うことをきいてくれる」「こちらが注意すると『はい』と返事をしてくれるから、わかっているはずだ」
「いずれにせよ、きれい好きなところは認めたい」「手荒れがひどくなっているから、クリームをつけるようにしよう」「一緒に手洗いに付き合ってあげたら、打ち解けるんじゃないか」
「他の利用者の迷惑になるから、最後はスタッフが力ずくで手洗い場から引き離すようにするしかない」「時間を守らせるのが大事だ。給食の時間に間に合わないなら、給食はなしでもいいだろう」――などなど。実際、こんな感じのケース会議が当時の施設では果てしなく続いていたのだった。
全盲の人の振る舞いであれば、それは視覚障害があるということを前提に、周囲は有効な支援を検討する。しかしながら、自閉症の人に対しては、自閉症の障がい特性から支援を考えることができず、表面に現れる行動への場当たり的な対応に終始してしまっていたのだった。
当時を振り返ると、その根本的な問題は、そもそも自閉症の障がい特性がどういうものか、私たちがよくわからずに支援をおこなっていたからだった。
中山清司(特定非営利活動法人 自閉症eサービス理事長)
(シルバー産業新聞2019年12月10日号)
我が国の自閉症支援の第一人者である児童精神科医佐々木正美先生は、次のように当時の状況を振り返っている。(佐々木正美先生 講演会の記録「わたしの中の自閉症療育論の歴史―自閉症の人々と30余年」(2012年4月):よこはま発達クリニックHPより)
「東大のデイケアは行動療法です。小児療育相談センター精神衛生相談室は絶対受容のプレイセラピーです。全く相反する方法ですが、どちらを見ても、納得できるような成果に思えませんでした。どちらに対してもある意味で否定的です。けれども他に方法がありません。そういう中で、統合保育や統合教育にはちょっと灯りが見えたように思ったのです。(中略)そしてわかったことは、統合教育でうまく行っているという場合のうまさというのは、自閉症の子どもがよくなって行くのではないのだということでした。」
このように佐々木先生は、当時の行動療法や絶対受容、統合教育といったやり方は、自閉症の子どもには効果がなかったと正直に述べている。
その理由は今となればよくわかるのだが、30年前の当時の現場スタッフたち(筆者もその一人だったが)には、なすすべがなかった。なぜなら、私たちは自閉症のことがよくわからないまま、その行動面だけを見て、どう抑えるか、どう止めるかに終始していたからだ。
全盲の方がいたとしよう。その人は、本が読めないでいる。そして、私たちは、その人が本が読めない理由をすぐに了解することができる。重度の視覚障がいがあって本が読めないのだと。そして、全盲の方でも本が読めるようにと、周囲は点字や読み上げソフトなどを用意することだろう。
しかし、施設で暮らす自閉症の人が、給食の前に、30分でも1時間でも手洗いをしていた場合、これまで私たちは、その事情や原因を自閉症の障がい特性から理解することができないできた。あるいは、それぞれのよって立つ理屈や経験に基づいてバラバラに解釈し、バラバラに対応してきたのだと言える。
例えば、「好きなんだから、好きなだけ手洗いをさせてもいいじゃないか」「水を出しっぱなしにするのはよくないから、兎に角やめさせるべきだ」
「本人に直接注意しても、すぐにはやめてくれない」「いや、私の場合は、結構言うことをきいてくれる」「こちらが注意すると『はい』と返事をしてくれるから、わかっているはずだ」
「いずれにせよ、きれい好きなところは認めたい」「手荒れがひどくなっているから、クリームをつけるようにしよう」「一緒に手洗いに付き合ってあげたら、打ち解けるんじゃないか」
「他の利用者の迷惑になるから、最後はスタッフが力ずくで手洗い場から引き離すようにするしかない」「時間を守らせるのが大事だ。給食の時間に間に合わないなら、給食はなしでもいいだろう」――などなど。実際、こんな感じのケース会議が当時の施設では果てしなく続いていたのだった。
全盲の人の振る舞いであれば、それは視覚障害があるということを前提に、周囲は有効な支援を検討する。しかしながら、自閉症の人に対しては、自閉症の障がい特性から支援を考えることができず、表面に現れる行動への場当たり的な対応に終始してしまっていたのだった。
当時を振り返ると、その根本的な問題は、そもそも自閉症の障がい特性がどういうものか、私たちがよくわからずに支援をおこなっていたからだった。
中山清司(特定非営利活動法人 自閉症eサービス理事長)
(シルバー産業新聞2019年12月10日号)