インタビュー・座談会
「風、薫る」看護考証担当に聞く 明治に始まる日本の看護史
現在放送中のNHK連続テレビ小説「風、薫る」は、明治時代に近代看護の礎を築いた大関和(おおぜき・ちか)と鈴木雅(すずき・まさ)をモチーフにした作品。激動の時代、生きづらさを抱える2人が看護の世界に飛び込み、傷ついた人々を救う姿を描く。同ドラマの看護考証に携わった日本赤十字看護大学川原由佳里教授に、看護の成り立ちを2人の功績とともに解説いただいた。
――看護師が誕生するまでの時代、誰がどのように看護を行っていたのですか。
日本で「看護」が独立した職業として芽吹きはじめたのは明治中期のことです。それまでは、家庭で誰かが病に伏せたとき、年老いた親が死を迎えるときに看病し看取ったのは家族でした。
親に孝行すること、子を大切に育むことは家族として当然のことであり、日本人にとっての「善」だったのです。もちろん病気が長引き、家族の負担が大きい場合は、親戚が手助けしたり、裕福な家では奉公人にも手伝ってもらいました。病人をとり囲むように人々が助け合い、みなで看護をしてきたのです。
ところが明治になって、人々が仕事を求めて地方から都市に移り住み、伝染病がたびたび流行すると、役人たちが身寄りのない者や伝染病で隔離された患者のために、人を雇って看護をさせるようになりました。「看病人」といわれる人たちです。最初は男性、やがて女性も雇用され、病院に住み込みで働くようになりました。看護の教育は受けておらず、伝染病では自らも命の危険に晒されながら看病をした人たちでした。
――どのようにして日本に看護師(婦)という職業が生まれたのですか。
江戸の末期から明治にかけて、西欧諸国に派遣され、見聞を広めた政府高官や医師たちによって、看護婦の存在が知られるようになりました。キリスト教の宣教師たちも伝道や社会改革運動の一環として、日本での看護婦の養成に着手します。
参考にされたのが、ナイチンゲールの「看護覚え書」(かんごおぼえがき)です。同書では、何がその人の回復過程を妨げ、あるいは促進するかをよく観察し、自然がその人の回復過程に働きかけるようにすることが看護である、と書かれています。
ナイチンゲールはクリミア戦争で手術を受けた兵士が次々と死んでいくのを目の当たりする中、空気を清浄に保ち、患者やベッド周りを清潔にし、スプーン一杯ずつの水を与え、適切な食事をとらせるようにしました。
結果、死亡率は劇的に改善しました。医師による治療とは別に、人々の回復に欠かせない職業として「看護」を示したのです。
――日本の初期の看護教育はどのようなものでしたか。
ナイチンゲールは、看護婦になるには知識だけでなく技術や道徳心をもつことが必要だと説きました。いわゆるナイチンゲール方式と呼ばれる看護教育は、寄宿舎生活によって生徒に規律や道徳を身につけさせ、医師から基礎的な医学的知識を学ばせるとともに、優れた看護監督によって看護を教え、優れた看護師の指導のもとに臨地で実習をさせることを含みます。
日本ではじめてナイチンゲール方式による看護を教育に取り入れたのは、1885(明治18)年に設立された有志共立東京病院看護婦教育所(現在の慈恵看護専門学校)です。イギリスに留学した医師の高木兼寛がナイチンゲール看護学校を視察し、大山捨松が鹿鳴館バザーで集めた寄付により設立されました。
翌86年には同志社英学校(現・同志社大学)の新島襄と医療宣教師のジョン・ベリーが京都看病婦学校を設立。また同年、桜井女学校(現・女子学院の前身)に付属の看護婦養成所が開かれました。ここで育った第1回生が大関和と鈴木雅です。これら3つの学校では米国や英国から看護の先生を招いて教育が行われました。
――大関和と鈴木雅の看護の歩みについて教えて下さい。
大関和は1858(安政5)年、下野国黒羽藩(今の栃木県)の家老の次女として生まれます。家が没落し、結婚した相手との間に2人の子どもを設けましたが、夫と離縁しました。
上京しキリスト教と出会い、教会を通じて看護婦(トレインドナース)になることを勧められた和は、桜井女学校付属看護婦養成所で鈴木雅とともに看護を学びました。
卒業後、和は帝大医院で外科看病婦取締になりますが、看護婦の労働環境の改善を求めたことで医師と対立し病院を辞め、新潟県の知命堂病院で初代看護婦長として活躍しました。やがて雅が開設した東京看護婦講習所の講師に招かれたことで東京に戻り、さらに雅が開いた派出看護婦会も引き継ぎました。
和、雅ら初期のトレインドナースたちは、従来から病院にいた看病婦とともに働き、病院看護を刷新しました。また派出看護として、病院・開業医からの紹介や患者のいる家庭からの要望に応じて個別に契約を結び、患者宅へ出向き看護をしました。
派出看護は、1887年に東京慈恵医院が、上流家庭を中心にトレインドナースを派出したのが始まりです。91年には鈴木雅が日本で初めて、個人が経営する派出看護婦会を設立。それが慈善看護婦会でした。
1894年に始まった日清戦争では、多くのトレインドナースが日赤に協力して活躍し、看護婦という職業が一般に知られるようになりました。一方で、教育が不十分な看護婦を派出する悪徳な看護婦会も増加し、看護の質が問われるようになりました。
そのような中、看護の資格制度を整えることへの動きが起こりました。和を先頭に、派出看護婦会の会主たちが大日本看護婦人矯風会を結成し、国に対し看護婦規則の制定を求めたのです。そして1900年、東京府の看護婦規則が発令されました。この規則は、看護婦会や開業医に所属する看護婦のみを対象とし、官公私立病院で働く看護婦は対象外とするなど不十分な点もありましたが、看護の専門職化に向けた道のりの一里塚になりました。
和は1908年に看護法のテキスト「実地看護法」をまとめるなど、以降も看護の質の向上に尽力し続けました。
――ドラマの看護考証では主にどういった点に注目されましたか。
看護の歴史を知ってもらう良い機会になると、喜んで引き受けました。ストーリーについては登場人物の出自や性格、歴史上の業績まで大胆に改変がなされました。上述のような大関和や鈴木雅とは年齢も8〜9歳ほど低く設定され、新人看護婦としての未熟さから失敗もしながら成長する物語になっています。
朝のドラマということで吐物や排泄物をはじめ、清拭や更衣などで肌を見せることができない中での看護の描写となりました。また、コレラや赤痢などの伝染病はまだ原因菌が分かっていない時代であり、乳がんや胃がんの手術の成功率もわずか10%程度という時代でした。
それゆえ、回復においては看護がその人のもつ生命力をいかに発揮させるか、また治癒が望めない場合はその人の苦痛にどう寄り添えるかが重要なのですが、その看護の役割が十分描かれていたかどうかは、疑問が残りました。
一方、赤痢防疫の場面では、綿密に事前の打ち合わせを重ねた上で撮影が行われました。ナレーションが少なく分かりづらかったと思いますが、当時としては先進的な感染対策が実践されていたことを表現するため、手洗い、マスクやガウンの着用、患者区域の区分け、薬液や煮沸による消毒、排泄物の処理など、視聴者の目には映らないところも細部にわたり決めており、関係者の皆さんの熱意が感じられました。
当時の外科医が素手で手術を行っていた史実をもとに、手袋なしでの手術を再現しましたので、驚かれた方も多かったようです。現代の感染管理からみれば決して完璧とは言えませんが、それもまた看護や医療が発展していった一つの歴史を物語っていると思います。
看護のこれまでの発展の陰には、多くの先人たちの努力と挑戦がありました。この作品をきっかけに近代看護の歴史や大関和、鈴木雅の歩みに関心を持つ人が増え、新たな研究や発見につながるのであれば、考証に携わった者としてこれほど嬉しいことはありません。
日本で「看護」が独立した職業として芽吹きはじめたのは明治中期のことです。それまでは、家庭で誰かが病に伏せたとき、年老いた親が死を迎えるときに看病し看取ったのは家族でした。
親に孝行すること、子を大切に育むことは家族として当然のことであり、日本人にとっての「善」だったのです。もちろん病気が長引き、家族の負担が大きい場合は、親戚が手助けしたり、裕福な家では奉公人にも手伝ってもらいました。病人をとり囲むように人々が助け合い、みなで看護をしてきたのです。
ところが明治になって、人々が仕事を求めて地方から都市に移り住み、伝染病がたびたび流行すると、役人たちが身寄りのない者や伝染病で隔離された患者のために、人を雇って看護をさせるようになりました。「看病人」といわれる人たちです。最初は男性、やがて女性も雇用され、病院に住み込みで働くようになりました。看護の教育は受けておらず、伝染病では自らも命の危険に晒されながら看病をした人たちでした。
――どのようにして日本に看護師(婦)という職業が生まれたのですか。
江戸の末期から明治にかけて、西欧諸国に派遣され、見聞を広めた政府高官や医師たちによって、看護婦の存在が知られるようになりました。キリスト教の宣教師たちも伝道や社会改革運動の一環として、日本での看護婦の養成に着手します。
参考にされたのが、ナイチンゲールの「看護覚え書」(かんごおぼえがき)です。同書では、何がその人の回復過程を妨げ、あるいは促進するかをよく観察し、自然がその人の回復過程に働きかけるようにすることが看護である、と書かれています。
ナイチンゲールはクリミア戦争で手術を受けた兵士が次々と死んでいくのを目の当たりする中、空気を清浄に保ち、患者やベッド周りを清潔にし、スプーン一杯ずつの水を与え、適切な食事をとらせるようにしました。
結果、死亡率は劇的に改善しました。医師による治療とは別に、人々の回復に欠かせない職業として「看護」を示したのです。
――日本の初期の看護教育はどのようなものでしたか。
ナイチンゲールは、看護婦になるには知識だけでなく技術や道徳心をもつことが必要だと説きました。いわゆるナイチンゲール方式と呼ばれる看護教育は、寄宿舎生活によって生徒に規律や道徳を身につけさせ、医師から基礎的な医学的知識を学ばせるとともに、優れた看護監督によって看護を教え、優れた看護師の指導のもとに臨地で実習をさせることを含みます。
日本ではじめてナイチンゲール方式による看護を教育に取り入れたのは、1885(明治18)年に設立された有志共立東京病院看護婦教育所(現在の慈恵看護専門学校)です。イギリスに留学した医師の高木兼寛がナイチンゲール看護学校を視察し、大山捨松が鹿鳴館バザーで集めた寄付により設立されました。
翌86年には同志社英学校(現・同志社大学)の新島襄と医療宣教師のジョン・ベリーが京都看病婦学校を設立。また同年、桜井女学校(現・女子学院の前身)に付属の看護婦養成所が開かれました。ここで育った第1回生が大関和と鈴木雅です。これら3つの学校では米国や英国から看護の先生を招いて教育が行われました。
――大関和と鈴木雅の看護の歩みについて教えて下さい。
大関和は1858(安政5)年、下野国黒羽藩(今の栃木県)の家老の次女として生まれます。家が没落し、結婚した相手との間に2人の子どもを設けましたが、夫と離縁しました。
上京しキリスト教と出会い、教会を通じて看護婦(トレインドナース)になることを勧められた和は、桜井女学校付属看護婦養成所で鈴木雅とともに看護を学びました。
卒業後、和は帝大医院で外科看病婦取締になりますが、看護婦の労働環境の改善を求めたことで医師と対立し病院を辞め、新潟県の知命堂病院で初代看護婦長として活躍しました。やがて雅が開設した東京看護婦講習所の講師に招かれたことで東京に戻り、さらに雅が開いた派出看護婦会も引き継ぎました。
和、雅ら初期のトレインドナースたちは、従来から病院にいた看病婦とともに働き、病院看護を刷新しました。また派出看護として、病院・開業医からの紹介や患者のいる家庭からの要望に応じて個別に契約を結び、患者宅へ出向き看護をしました。
派出看護は、1887年に東京慈恵医院が、上流家庭を中心にトレインドナースを派出したのが始まりです。91年には鈴木雅が日本で初めて、個人が経営する派出看護婦会を設立。それが慈善看護婦会でした。
1894年に始まった日清戦争では、多くのトレインドナースが日赤に協力して活躍し、看護婦という職業が一般に知られるようになりました。一方で、教育が不十分な看護婦を派出する悪徳な看護婦会も増加し、看護の質が問われるようになりました。
そのような中、看護の資格制度を整えることへの動きが起こりました。和を先頭に、派出看護婦会の会主たちが大日本看護婦人矯風会を結成し、国に対し看護婦規則の制定を求めたのです。そして1900年、東京府の看護婦規則が発令されました。この規則は、看護婦会や開業医に所属する看護婦のみを対象とし、官公私立病院で働く看護婦は対象外とするなど不十分な点もありましたが、看護の専門職化に向けた道のりの一里塚になりました。
和は1908年に看護法のテキスト「実地看護法」をまとめるなど、以降も看護の質の向上に尽力し続けました。
――ドラマの看護考証では主にどういった点に注目されましたか。
看護の歴史を知ってもらう良い機会になると、喜んで引き受けました。ストーリーについては登場人物の出自や性格、歴史上の業績まで大胆に改変がなされました。上述のような大関和や鈴木雅とは年齢も8〜9歳ほど低く設定され、新人看護婦としての未熟さから失敗もしながら成長する物語になっています。
朝のドラマということで吐物や排泄物をはじめ、清拭や更衣などで肌を見せることができない中での看護の描写となりました。また、コレラや赤痢などの伝染病はまだ原因菌が分かっていない時代であり、乳がんや胃がんの手術の成功率もわずか10%程度という時代でした。
それゆえ、回復においては看護がその人のもつ生命力をいかに発揮させるか、また治癒が望めない場合はその人の苦痛にどう寄り添えるかが重要なのですが、その看護の役割が十分描かれていたかどうかは、疑問が残りました。
一方、赤痢防疫の場面では、綿密に事前の打ち合わせを重ねた上で撮影が行われました。ナレーションが少なく分かりづらかったと思いますが、当時としては先進的な感染対策が実践されていたことを表現するため、手洗い、マスクやガウンの着用、患者区域の区分け、薬液や煮沸による消毒、排泄物の処理など、視聴者の目には映らないところも細部にわたり決めており、関係者の皆さんの熱意が感じられました。
当時の外科医が素手で手術を行っていた史実をもとに、手袋なしでの手術を再現しましたので、驚かれた方も多かったようです。現代の感染管理からみれば決して完璧とは言えませんが、それもまた看護や医療が発展していった一つの歴史を物語っていると思います。
看護のこれまでの発展の陰には、多くの先人たちの努力と挑戦がありました。この作品をきっかけに近代看護の歴史や大関和、鈴木雅の歩みに関心を持つ人が増え、新たな研究や発見につながるのであれば、考証に携わった者としてこれほど嬉しいことはありません。
(かわはら・ゆかり)
日本赤十字看護大学教授、博士(看護学、歴史学)。専門は基礎看護学、歴史研究。主な著書に「戦争のある場所に看護師がいる:Nurses in wartime」(共著・日本看護協会出版会)、「戦争と看護師」(共著・国書刊行会)。
(シルバー産業新聞2026年9月10日号)


