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ねんりんピック新聞 2025in岐阜 インタビュー 水泳
世界記録引っ提げ7大会連続出場へ
大垣市 坂井田多恵子さん(78)
6月に滋賀で行われた関西マスターズ水泳選手権大会で世界新記録を樹立した。4×200mの男女混合フリー(自由形)リレー。出場4人の年齢合計が320〜359歳の部で、坂井田さんら4人はちょうど計320歳だった。これまでの記録を27秒も縮める31分39秒30をたたき出した。
そのメンバーで挑むねんりんピック。ただ出場枠は「280歳以上」の部となるため「より若いチームと競うことになる。
メダルはかなり厳しい。自己記録の更新をめざしたい」と目標を話す。個人種目の背泳ぎ(50m・25m)にも出場。膝の靭帯を負傷してから、足を曲げなくてもよい自由形と背泳ぎを専門とする。
県の規定により坂井田さんは2017年秋田大会以降、全大会出場を果たしている。優勝含め、成績は常に上位。「一番印象的だったのは、個人背泳ぎで優勝した18年富山大会」と坂井田さん。「背泳ぎは絶対に、自分が表彰する」と、当時スポーツ庁長官だった鈴木大地さんが表彰式に飛び入りし、祝福の言葉をもらった。「突然のアナウンスに驚いた」。
「溺れない」広げる
中学で水泳をはじめた坂井田さん。高校では1964年東京オリンピックの代表候補に名が挙がるほどの実力を備えていた。短大卒業後、結婚・出産などがあり10年ほどブランク。「正直言うと、練習がつらすぎて泳ぐのも見るのも嫌になったのが一番の理由」と思い返す。
特に、プールに入ることがでニンきない夏以外の陸上トレーニングが過酷を極めた。竹の棒を持った監督に後ろから追いかけられながらのランニングは日常風景。特に冬休みは1週間の山籠もり合宿で、来る日も来る日も山を上り下りしたそうだ。
再び水泳に関わったのは、子育てがひと段落した30代のとき。高校のときの先輩から水泳指導に誘われた。そこで坂井田さんが心血を注いだのが着衣水泳、溺れないための泳法だ。当時、女性では珍しい水上安全の指導員資格を取得した。
「その頃、水難事故も多かった。学校やスイミングスクールでは前に進むための水泳しか教えないが、大切なのは上を向いてずっと浮いている状態を保つこと。プールでは泳げるが、川や海の流れが分からず、対応できないまま溺れてしまう子が多い」(坂井田さん)
溺れかかっている人は、物凄い力でしがみついてくる。助けに行った人が溺れる原因の一つだと坂井田さんは説明する。実は、相手の力が抜けて沈みかけた方が救助しやすいそうだ。指導員を受けたときの教官の言葉「溺れている人、助けに行く人の2人共が無事で初めて『救助』となる」が今も心に残っている。
競泳を再開したのは50代に入ってから。市町村対抗の「県民スポーツ大会」で、大垣市のチームから招集がかかった。
本人は「普段は健康と美容のために泳いでいる」と話すが、それでもスタート台に立つと「負けたくない」と、アスリート精神が自然と沸き立ってくる。
そのメンバーで挑むねんりんピック。ただ出場枠は「280歳以上」の部となるため「より若いチームと競うことになる。
メダルはかなり厳しい。自己記録の更新をめざしたい」と目標を話す。個人種目の背泳ぎ(50m・25m)にも出場。膝の靭帯を負傷してから、足を曲げなくてもよい自由形と背泳ぎを専門とする。
県の規定により坂井田さんは2017年秋田大会以降、全大会出場を果たしている。優勝含め、成績は常に上位。「一番印象的だったのは、個人背泳ぎで優勝した18年富山大会」と坂井田さん。「背泳ぎは絶対に、自分が表彰する」と、当時スポーツ庁長官だった鈴木大地さんが表彰式に飛び入りし、祝福の言葉をもらった。「突然のアナウンスに驚いた」。
「溺れない」広げる
中学で水泳をはじめた坂井田さん。高校では1964年東京オリンピックの代表候補に名が挙がるほどの実力を備えていた。短大卒業後、結婚・出産などがあり10年ほどブランク。「正直言うと、練習がつらすぎて泳ぐのも見るのも嫌になったのが一番の理由」と思い返す。
特に、プールに入ることがでニンきない夏以外の陸上トレーニングが過酷を極めた。竹の棒を持った監督に後ろから追いかけられながらのランニングは日常風景。特に冬休みは1週間の山籠もり合宿で、来る日も来る日も山を上り下りしたそうだ。
再び水泳に関わったのは、子育てがひと段落した30代のとき。高校のときの先輩から水泳指導に誘われた。そこで坂井田さんが心血を注いだのが着衣水泳、溺れないための泳法だ。当時、女性では珍しい水上安全の指導員資格を取得した。
「その頃、水難事故も多かった。学校やスイミングスクールでは前に進むための水泳しか教えないが、大切なのは上を向いてずっと浮いている状態を保つこと。プールでは泳げるが、川や海の流れが分からず、対応できないまま溺れてしまう子が多い」(坂井田さん)
溺れかかっている人は、物凄い力でしがみついてくる。助けに行った人が溺れる原因の一つだと坂井田さんは説明する。実は、相手の力が抜けて沈みかけた方が救助しやすいそうだ。指導員を受けたときの教官の言葉「溺れている人、助けに行く人の2人共が無事で初めて『救助』となる」が今も心に残っている。
競泳を再開したのは50代に入ってから。市町村対抗の「県民スポーツ大会」で、大垣市のチームから招集がかかった。
本人は「普段は健康と美容のために泳いでいる」と話すが、それでもスタート台に立つと「負けたくない」と、アスリート精神が自然と沸き立ってくる。



