連載《プリズム》
地域を見守る聴診器
清流の川辺川の環境を守ろうとダム建設反対の先頭を走ってきた熊本県相良村の緒方俊一郎医師を訪ねた。緒方医院は、洪庵ともつながる5代目。「病気を予防することこそが医療の本質」との思いが、環境保護活動や特養・老健などの福祉事業へ駆り立てたと話す。(プリズム2014年8月)
若き日から、川辺川の上流部にある五木村に何度も往診した。昭和40年代当時は道も悪い。車を降りて1時間、ともすると2時間歩いて、患家にたどり着いた。
ある夏の日、息子の嫁に呼ばれて往診に行くと、雨戸が閉まったまま。家に入ると、目が慣れるにつれて、はーはー言いながら、おばあちゃんが寝ていることが分かった。枕元には、干からびたご飯がついたお茶碗が転がる。天日のお湯が使えたので、看護婦といっしょに体を洗った。腹が減ったと言われれば、何かこしらえて持って行って食べさせた。山奥では、死ぬときに初めて死亡診断書のために呼ばれたこともある。寝たっきりで褥瘡が骨まで達しているが、それでも入院させるお金のない悲惨な人たちをたくさん診てきた。
地域には医療以前の問題が山積していた。緒方さんは学生時代から公害や農薬被害などの環境問題などに強い関心があった。普通の生活で、あるいは治療のために服薬することで、逆に体を冒してしまう事態が、医師として許せなかった。気付いた者が声を出さなければと思った。
地域の人たちに推されて、緒方医師の父が村長戦に出馬することになり、急きょ相良村に戻った。医学生だった時、サリドマイドの子どもたちのサークルで出会った礼子さんと結婚。父は水田開発をめざしてダム建設を推進。反対する息子と家でもぶつかった。3期目途中で、父はがんを患いながら2年間村長職を務めた。減反政策によって水田開発は途絶えた。最期には息子にダムの建設反対を許した。いま、川辺川ダム建設は止まっている。
息子夫妻は、地域の人たちの生活と介護を支えるために特養や老健を作ろうと思ったが、村長だった父は利益誘導になるからと認めなかった。その後、85年、特養「川辺川園」、89年、老健「サンライフみのり」を設立し、先頃、社会福祉法人設立30年が祝われた。地域の医師会長を14年間務め、県医師会では介護保険担当を10年間担った緒方さん。「死に方が、私たちみんなの問題になった」と話す。41年生まれ、73歳。今日も聴診器で、住民の健康と生活を診る。
(シルバー産業新聞2014年8月10日号)
ある夏の日、息子の嫁に呼ばれて往診に行くと、雨戸が閉まったまま。家に入ると、目が慣れるにつれて、はーはー言いながら、おばあちゃんが寝ていることが分かった。枕元には、干からびたご飯がついたお茶碗が転がる。天日のお湯が使えたので、看護婦といっしょに体を洗った。腹が減ったと言われれば、何かこしらえて持って行って食べさせた。山奥では、死ぬときに初めて死亡診断書のために呼ばれたこともある。寝たっきりで褥瘡が骨まで達しているが、それでも入院させるお金のない悲惨な人たちをたくさん診てきた。
地域には医療以前の問題が山積していた。緒方さんは学生時代から公害や農薬被害などの環境問題などに強い関心があった。普通の生活で、あるいは治療のために服薬することで、逆に体を冒してしまう事態が、医師として許せなかった。気付いた者が声を出さなければと思った。
地域の人たちに推されて、緒方医師の父が村長戦に出馬することになり、急きょ相良村に戻った。医学生だった時、サリドマイドの子どもたちのサークルで出会った礼子さんと結婚。父は水田開発をめざしてダム建設を推進。反対する息子と家でもぶつかった。3期目途中で、父はがんを患いながら2年間村長職を務めた。減反政策によって水田開発は途絶えた。最期には息子にダムの建設反対を許した。いま、川辺川ダム建設は止まっている。
息子夫妻は、地域の人たちの生活と介護を支えるために特養や老健を作ろうと思ったが、村長だった父は利益誘導になるからと認めなかった。その後、85年、特養「川辺川園」、89年、老健「サンライフみのり」を設立し、先頃、社会福祉法人設立30年が祝われた。地域の医師会長を14年間務め、県医師会では介護保険担当を10年間担った緒方さん。「死に方が、私たちみんなの問題になった」と話す。41年生まれ、73歳。今日も聴診器で、住民の健康と生活を診る。
(シルバー産業新聞2014年8月10日号)