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最大線量44.7μSvの飯舘村 逃げないことで利用者を守った

最大線量44.7μSvの飯舘村 逃げないことで利用者を守った

 いいたてホームは1997年に開設した飯舘村で唯一の特養。福島第一原子力発電所からは30㎞圏外に位置しており、震災当時は20㎞圏内の相双地区よりも離れていたものの、線量は最大44.7μSv(マイクロシーベルト)/時を測定。早期の避難が必要なはずだった。しかし、当時の施設長三瓶政美さんは避難をしないことを選択した。

 震災当時、三瓶施設長は福島市内にいた。すぐに公衆電話から連絡を入れて職員と入所者の安全を確認し、ホームへ向かった。「ホームは周りの塀が倒れ、水道管は破裂していた。電気も止まり、数日間は非常用電源に頼ることになった。トイレの水は外の雪をバケツに入れて屋内で溶かして利用した」。幸い15日には電源が復旧し、水も使えるようになった。

空間線量44.7μSvを測定

 一方で、12日には福島第一原子力発電所で水素爆発が発生。飯舘村は山間部にあり、当初、放射線の影響は小さいと考えられていた。「避難先として、受け入れ態勢を整えていた。ところが、14日、15日ごろになると、村から出ていく人が増え始めた。後日、15日時点でホームから100mほどに位置する村役場の空間線量が44.7μSv/時に達していたことが分かった」(三瓶さん)。

 飯舘村が避難地域に指定されたのは4月22日だった。年間の被ばく量が20mSvを超える恐れのある計画的避難区域に指定され、全住民の避難が必要な地域となった。
 いいたてホームにも知らせが届き、三瓶施設長は選択を迫られることになった。

利用者の負担を抑えるには

 まず考えたのが、職員、利用者全員を受け入れられる施設を探すこと。当時ホームの入所者は112人、職員は120人いた。県社協に問い合わせたところ、静岡県伊東市で受け入れ可能な場所があることが分かった。しかし村から伊東市まで400㎞以上。負担を考えるととても移動可能な距離とは思えなかった。

 次に、複数の施設に分散させる方法を考えた。幸い、埼玉の特養29カ所で受け入れ可能との連絡を受けた。ただ、静岡よりは近いとはいえ280㎞あり、顔見知りの職員や入所者が少なくなるなどによる環境が大きく変わることのストレスを考えると、難しいという判断になった。

 最後に残ったのが、全員がホームに残るという判断。避難の基準である被ばく量20mSv/年は1日のうち昼間の8時間屋外にいて観測される数値とされており、鉄筋コンクリート造りの屋内にいて、屋外に出るのを必要最低限にとどめればクリアできる数値だった。

 そこで、国へ村議会を通して運営継続の要望書を提出。基準線量を超えたらすぐに避難すること、職員は必ず村外の避難先から通うこと、妊婦は働かないことなど17条件を守ることで運営の継続が認められた。

 ただ、利用者家族の不安もあり、旦那さんに連れられ、一時的に避難した利用者も一人いた。ところが、車いすでの自走ができなくなり、1週間ほどで戻ってきた。「避難体制、受け入れ態勢が整わない状況で避難しては、負担の大きさから体調を崩す人がいたかもしれない。飯舘村は特に避難指示が遅かったので、行く先々で『受け入れる余裕がない』と断られる可能性も高かった」。結果的に残ったことが、災害関連死が出なかったことにつながったと三瓶さんは振り返る。
 運営の継続が可能になったことで、次の課題に挙がったのが職員の確保。3月末に20人が一斉に退職してしまい、法人が運営する保育園や休止したデイサービスの職員に手伝ってもらいながら、何とかケアを続けていた。

応援介護職員制度立ち上げ

 そこで、全国老人福祉施設協議会から県への寄付金をもとに、翌年、被災地の介護施設に3カ月以上勤めてくれる介護福祉士を全国から募集する「応援職員制度」の構想を立ち上げた。そこに厚労省や県も関わる形で実現に結び付けた。避難先から通うという要件を満たすため、南相馬市に仮設の宿泊所も作った。

 他にも、ボランティアで来てくれる人も多くいた。福岡県から応募してきた職員は、移住することを前提に来てくれた。今は結婚して2人の子供もできホームの近くに住んでいる。

 三瓶さんは「人手の確保を県外に頼るのは限界がある。地元で勉強して地元の施設で実習をすれば、多くの若者は生まれた土地で就職する。この地域の人手不足の根本的な解決には、地元で介護技術を学べる施設が何としても必要だ」と窮状を訴える。

(シルバー産業新聞2021年5月10日号)

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