インタビュー・座談会
ノーベル受賞者を生んだ教育 澤柿教誠先生

2002年にノーベル化学賞を受賞した田中耕一さんは、受賞後のインタビューで「小学生時代の澤柿先生が私の恩師」と答えている。現在、富山で寺の住職をする澤柿教誠さんに、小学生時代の田中少年の様子などを尋ねた。
大切な「不思議に思う心」
富山県上市町で浄土真宗の寺の住職をする澤柿教誠さん(83歳)は、小学校教師時代に、タンパク質の分析技術の開発でノーベル化学賞を02年に受賞した田中耕一さんを教えた。当時、澤柿さんが教鞭をとった富山市立八人町小学校は理科教育に力を注いでいた。
澤柿さんは教師になって12年、子どもたちと一緒になった理科教育をしたいと望んで同校の教師になった。そこに4年生になった田中少年がいて、6年生まで担任をした。放課後、理科準備室で実験教材づくりをしていると、子どもたちも教材づくりを手伝いにやってきた。色が変わる、動く、子どもが不思議に思って、なぜ?と疑問をもちながら、いろいろやってみて、さらに変化を調べる。先生といっしょになって作った実験教材で行うことで興味は倍増。どうなれば、どう変わるのか。変化のパターンが分かってくる。
澤柿さんは教師になって12年、子どもたちと一緒になった理科教育をしたいと望んで同校の教師になった。そこに4年生になった田中少年がいて、6年生まで担任をした。放課後、理科準備室で実験教材づくりをしていると、子どもたちも教材づくりを手伝いにやってきた。色が変わる、動く、子どもが不思議に思って、なぜ?と疑問をもちながら、いろいろやってみて、さらに変化を調べる。先生といっしょになって作った実験教材で行うことで興味は倍増。どうなれば、どう変わるのか。変化のパターンが分かってくる。
野山を歩き、夜は肝試し
田中少年は、ふねを水に浮かべて磁石の働きを調べる実験で、磁石に引っ張られるふねの動きが速すぎるので、緩やかにするために、水を油に変える提案したという。これで動き(変化)がゆっくりとなって、磁力の働きが分かりやすくなった。
休みは、子どもたちを山へ連れて行った。学ぶことは自然に親しむことだと思った。田中さんの科学を見る目もそうしたなかで育っていった。夏休みには、子どもたちを順番に自寺に泊めた。「野山を歩き、夜には肝試し。妻が作ったカレーライスをみんなで食べました。言葉で教えるだけではなく、自然に向かう自分の姿を子どもたちに見せて、自然を直に感じてもらいたかったのです」と振り返る。
自身の子どもも、親の背中を見て育った。長男は地質の先生になり南極越冬隊員になった。次男も理科の先生で南極に行っている。
休みは、子どもたちを山へ連れて行った。学ぶことは自然に親しむことだと思った。田中さんの科学を見る目もそうしたなかで育っていった。夏休みには、子どもたちを順番に自寺に泊めた。「野山を歩き、夜には肝試し。妻が作ったカレーライスをみんなで食べました。言葉で教えるだけではなく、自然に向かう自分の姿を子どもたちに見せて、自然を直に感じてもらいたかったのです」と振り返る。
自身の子どもも、親の背中を見て育った。長男は地質の先生になり南極越冬隊員になった。次男も理科の先生で南極に行っている。

田中耕一さんの小学校時代の絵「未来の富山市」
自称サイエンスパートナー
自身の子どもも親の背中を見て育った。長男は地質の先生になり南極越冬隊員になった。次男も理科の先生で南極に行っている。子どもが大好きで、若い時分からの写真好きが高じて、理科教師になった澤柿先生の名刺には、「サイエンスパートナー」の肩書きを記している。
澤柿さんは、記者に南極の昭和基地を訪れた日本人宇宙飛行士の毛利さんの体験を話した。南極の昭和基地に着いて、毛利さんは「ハーア」と息を吐いたが、寒さで白くなるはずが透明のままだった。「どうしてか、分かりますか」と記者に尋ねた。澤柿先生は、「息が寒さで白くなるのは、息の中の水分が一瞬に凍るからですが、凍るための核となる小さなごみが必要、南極には、空気中に浮遊するごみがなかったのです」と教えられた。毛利さんは感激して、「いつまでもこの自然であってほしい」と願ったそうだ。
澤柿さんは、記者に南極の昭和基地を訪れた日本人宇宙飛行士の毛利さんの体験を話した。南極の昭和基地に着いて、毛利さんは「ハーア」と息を吐いたが、寒さで白くなるはずが透明のままだった。「どうしてか、分かりますか」と記者に尋ねた。澤柿先生は、「息が寒さで白くなるのは、息の中の水分が一瞬に凍るからですが、凍るための核となる小さなごみが必要、南極には、空気中に浮遊するごみがなかったのです」と教えられた。毛利さんは感激して、「いつまでもこの自然であってほしい」と願ったそうだ。
もったいない精神が発見に
「7時のニュースだったでしょうか。田中さんのノーベル賞受賞を知りました。最初はよく似た名前があるものだと思ったものです」。東北大学に進んだ田中さんは、島津製作所に就職した。ノーベル賞を受けた発見は、1985年、入社2年目だった。澤柿先生に説明いただいた。
「間違って混ぜ合わせた溶液をもったいないと使ったところ、待ち望んでいた成果があったのです。田中さんは、タンパク質の分子を把握する手法を発見したのですが、ただレーザー光を当てるだけだと分子は破壊されてしまう。そこで、水溶液を作ってイオン化した状態でレーザー光を当てれば分子がバラバラにならないのではと考えたが、どのような液が最適なのかが分からなかった。もったいない精神で、これが偶然にうまく行ったのです」
タンパク質を解析することで、新薬や新しい診断方法などへつながる可能性が高い。受賞は、別の方法でタンパク質の解析手法を編み出したクルト・ビュートリッヒ博士と、ジョン・B・フェン博士との3氏に授与された。
「創造力豊かな子どもを育てるためには、自主性や動機付けを大事にして、自分で考えるような環境をつくることだと思います。田中さんの発見は、偶然を生んだもったいない精神もありますが、しっかり見て、考える力を小学生の時に培ったことが大きな力になったのだと思います」と、田中少年の個性を伸ばす教育をした澤柿先生は話した。
「間違って混ぜ合わせた溶液をもったいないと使ったところ、待ち望んでいた成果があったのです。田中さんは、タンパク質の分子を把握する手法を発見したのですが、ただレーザー光を当てるだけだと分子は破壊されてしまう。そこで、水溶液を作ってイオン化した状態でレーザー光を当てれば分子がバラバラにならないのではと考えたが、どのような液が最適なのかが分からなかった。もったいない精神で、これが偶然にうまく行ったのです」
タンパク質を解析することで、新薬や新しい診断方法などへつながる可能性が高い。受賞は、別の方法でタンパク質の解析手法を編み出したクルト・ビュートリッヒ博士と、ジョン・B・フェン博士との3氏に授与された。
「創造力豊かな子どもを育てるためには、自主性や動機付けを大事にして、自分で考えるような環境をつくることだと思います。田中さんの発見は、偶然を生んだもったいない精神もありますが、しっかり見て、考える力を小学生の時に培ったことが大きな力になったのだと思います」と、田中少年の個性を伸ばす教育をした澤柿先生は話した。
<問題>
日本人のノーベル賞受賞者は26人います。何人言えますか?
【答え】
物理学賞 1949:湯川秀樹、1965:朝永振一郎、1973:江崎玲於奈、2002:小柴昌俊、2008:小林誠・益川敏英・南部陽一郎、2014:赤﨑勇・天野浩・中村修二、2015:梶田隆章
/化学賞 1981:福井謙一、2000:白川英樹、2001:野依良治、2002:田中耕一、2008:下村脩、2010:根岸英一・鈴木章
/生理学・医学賞 1987:利根川進、2012:山中伸弥、2015:大村智、2016:大隅良典、2018:本庶佑
/文学賞 1968:川端康成、1994:大江健三郎
/平和賞 1974:佐藤栄作
物理学賞 1949:湯川秀樹、1965:朝永振一郎、1973:江崎玲於奈、2002:小柴昌俊、2008:小林誠・益川敏英・南部陽一郎、2014:赤﨑勇・天野浩・中村修二、2015:梶田隆章
/化学賞 1981:福井謙一、2000:白川英樹、2001:野依良治、2002:田中耕一、2008:下村脩、2010:根岸英一・鈴木章
/生理学・医学賞 1987:利根川進、2012:山中伸弥、2015:大村智、2016:大隅良典、2018:本庶佑
/文学賞 1968:川端康成、1994:大江健三郎
/平和賞 1974:佐藤栄作
(ねんりんピック新聞2018in富山)