インタビュー・座談会
認知症を支える社会へ(1) 小島操/髙井隆一/石本淳也
11月11日の「介護の日」を記念して行われた特別座談会。認知症の方が増えていく時代の中で、どうすれば認知症の方が事故やトラブルに巻き込まれることなく、安心して地域の中で暮らしていけるのか。出席者それぞれの経験や考えを語り合ってもらいました。
座談会の内容を三部に分けて掲載します。
■(1)衝撃を与えた判決/当事者の気持ち (本ページ)
■(2)安全性と意思尊重のジレンマ/常識を覆した判決 (リンク先)
■(3)企業の理解が大事/認知症条例の制定 (リンク先)
■(1)衝撃を与えた判決/当事者の気持ち (本ページ)
■(2)安全性と意思尊重のジレンマ/常識を覆した判決 (リンク先)
■(3)企業の理解が大事/認知症条例の制定 (リンク先)
介護の現場に衝撃を与えた判決
小島 本日の司会をいたします小島です。介護保険制度が始まりました時から、地域でケアマネジャーをしてきました。現在は都内の独立型の居宅介護支援事業所におります。また、東京都介護支援専門員研究協議会の理事長も務めさせていただいております。今日は「認知症高齢者を地域でいかに支えていくか」をテーマに、皆様と議論を深めていきたいと思います。
髙井 愛知県大府市に住んでおります、髙井と申します。認知症を患った父が、鉄道事故に遭い、損害賠償を求められる裁判を経験しました。本日はそのことを中心にお話させていただきます。
石本 日本介護福祉士会会長の石本です。専門職として、介護の仕事に関わる一方で、母が20年前に若年性アルツハイマーを発病し、在宅で介護をしてきました
髙井 愛知県大府市に住んでおります、髙井と申します。認知症を患った父が、鉄道事故に遭い、損害賠償を求められる裁判を経験しました。本日はそのことを中心にお話させていただきます。
石本 日本介護福祉士会会長の石本です。専門職として、介護の仕事に関わる一方で、母が20年前に若年性アルツハイマーを発病し、在宅で介護をしてきました
小島 お二人に共通するのは、認知症の家族を家で介護するという選択をされていることです。
髙井 私の家の場合は、妻が父の家の近くに住み、母と一緒に面倒を見ていました。私も仕事の合間を縫って東京から大府に通い、介護をしました。ある時、父が骨折を機に心不全で入院をすることがあり、それを機に一気に認知症の症状が悪化してしまいました。
病院では点滴の針を抜いてしまったり、注射を刺す時に暴れたりするなど、とても入院を続けられる状態ではなかったので、リスクを覚悟して、自宅に退院させました。そうすると、不思議なくらい症状が落ち着いたので、これはもう自宅で見るしかないなと思いました。
小島 住み慣れた家に戻り、ご自分のリズムを取り戻せたのでしょうね。特に認知症の方はリロケーションダメージといって、慣れない環境におかれると不安や混乱が高まり、症状を悪化させることがあるようです。
髙井 私の家の場合は、妻が父の家の近くに住み、母と一緒に面倒を見ていました。私も仕事の合間を縫って東京から大府に通い、介護をしました。ある時、父が骨折を機に心不全で入院をすることがあり、それを機に一気に認知症の症状が悪化してしまいました。
病院では点滴の針を抜いてしまったり、注射を刺す時に暴れたりするなど、とても入院を続けられる状態ではなかったので、リスクを覚悟して、自宅に退院させました。そうすると、不思議なくらい症状が落ち着いたので、これはもう自宅で見るしかないなと思いました。
小島 住み慣れた家に戻り、ご自分のリズムを取り戻せたのでしょうね。特に認知症の方はリロケーションダメージといって、慣れない環境におかれると不安や混乱が高まり、症状を悪化させることがあるようです。
オープンにできない当事者の気持ち
小島 ところで、髙井さんはご自分のお父様が認知症だと分かった時、恥ずかしいという気持ちはありましたか。
髙井 当初は近所の方々に知られたくないなという気持ちがありました。父にはできるだけ家の中にいてもらいたかったというのが正直な気持ちです。
でも、毎日家の外に出て、植木に水をやったり、ゴミ拾いをしたりするのが父の日課でした。認知症になっても父はそれをやりたがりましたし、また、その姿を見ると本当にいきいきとしていましたので、「もうこれは自由にさせよう」と開き直りました。近所の方々も何十年と付き合っている中で、そうした変化には早い段階から気付かれていたと思います。
髙井 当初は近所の方々に知られたくないなという気持ちがありました。父にはできるだけ家の中にいてもらいたかったというのが正直な気持ちです。
でも、毎日家の外に出て、植木に水をやったり、ゴミ拾いをしたりするのが父の日課でした。認知症になっても父はそれをやりたがりましたし、また、その姿を見ると本当にいきいきとしていましたので、「もうこれは自由にさせよう」と開き直りました。近所の方々も何十年と付き合っている中で、そうした変化には早い段階から気付かれていたと思います。
石本 私の母は52歳の時に若年性のアルツハイマーを患いました。当時は父も働いていましたし、私たち夫婦も共働きでしたので、みんなで働きながら母の介護をしてきました。
ただ、症状が進むにつれ、裸足で家の外に飛び出すようになり、他人の家に上がりこんだりするようになったので、意を決して「母はこういう病気です」と近所に一軒一軒、説明して回りました。「留守で目が届かない時に何かあったら一本電話ください」と私の連絡先をお伝えしたところ、地域の方から電話をいただけるようになりました。
ただ、症状が進むにつれ、裸足で家の外に飛び出すようになり、他人の家に上がりこんだりするようになったので、意を決して「母はこういう病気です」と近所に一軒一軒、説明して回りました。「留守で目が届かない時に何かあったら一本電話ください」と私の連絡先をお伝えしたところ、地域の方から電話をいただけるようになりました。
小島 介護のプロである石本さんにも恥ずかしいという気持ちはありましたか。
石本 最初はそう思いました。特に母は52歳という若さでしたし、私も妻も介護福祉士でしたので、自分達だけで何とかなるだろうと思っていた部分がありました。しかし、プロとして認知症のことを理解はしていたのですが、いざ自分の家族となると、素直にオープンにできないという気持ちがありました。そこで躊躇していた部分も正直あります。何よりも、母自身が自分の病気を受け入れることができていませんでしたので、なかなか受診につながらず、オープンにすることに時間がかかりました。
石本 最初はそう思いました。特に母は52歳という若さでしたし、私も妻も介護福祉士でしたので、自分達だけで何とかなるだろうと思っていた部分がありました。しかし、プロとして認知症のことを理解はしていたのですが、いざ自分の家族となると、素直にオープンにできないという気持ちがありました。そこで躊躇していた部分も正直あります。何よりも、母自身が自分の病気を受け入れることができていませんでしたので、なかなか受診につながらず、オープンにすることに時間がかかりました。
小島 人間は加齢や病気によって体力も衰えるし、判断力もだんだん弱くなる。それは誰にでも起きる当たり前のことなのに、なかなかオープンにできにくいものです。それをみんなが理解し、支え合っていける地域や社会をつくっていくのが現在の課題です。
石本 地域の方の支えは、本当に力になります。ただ、そうしたネットワークが築けるかどうかは、地域によっても大きく変わってくると思います。私の場合は、熊本の田舎の方だったのでできた部分も大きく、そうした協力体制が、都市部も含め、全国でつくられていくと良いなと思います。
石本 地域の方の支えは、本当に力になります。ただ、そうしたネットワークが築けるかどうかは、地域によっても大きく変わってくると思います。私の場合は、熊本の田舎の方だったのでできた部分も大きく、そうした協力体制が、都市部も含め、全国でつくられていくと良いなと思います。
(介護の日しんぶん2017年11月11日)