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一に努力、二に努力、三また努力 金メダリスト 前畑秀子 ①

一に努力、二に努力、三また努力 金メダリスト 前畑秀子 ①

 「前畑がんばれ!前畑がんばれ!」――。真夜中のラジオから聴こえる声に日本国民が熱狂した1936年。前畑秀子さんはベルリンオリンピックの200m平泳ぎで、日本人女性初の金メダルに輝いた。今年ねんりんピック大会が開催される和歌山県の出身。活躍の由来を探った。

 このページ「①」では、前畑さんの現役時代を紹介する。続く「②」では、指導者としての歩みを辿る。
 ■ ① 一に努力、 二に努力、 三また努力 (本ページ)
 ■ ② 水泳に命を捧げた生涯 (リンク先へ)

オリンピアン養成所? 紀ノ川

 前畑さんは1914年、和歌山県伊都郡橋本町(現橋本市)に生まれる。自宅のすぐ裏に流れる紀ノ川は、両親とよく水遊びに来た場所。小学校の水泳部ではメインの練習場所でもあった。
 「川底に杭を打ち込み、その上に板をはりスタート台にしていました。天然のプールです」と、橋本市まちの歴史資料保存会事務局長の谷口善志郎さんは説明する。当時の紀ノ川は今の3~5倍の水量で水深もあり、前畑さん達は「わんど」と呼ばれる入江状の場所から飛び込みの練習をよく行った。
 ここで一緒に練習していた小島一枝さんも、ベルリン五輪の400m自由形で6位入賞している。また、56年メルボルン五輪で金メダルの古川勝さんは、紀ノ川で潜水して川底の石を運び、肺活量を鍛えたという。
 前畑さんと古川さんの生家は道を挟んで目と鼻の先にあった。

紀ノ川。昔は右の中州部分も川が流れていた

入江状になってできる「わんど」

「努力の人」を作ったロス五輪

29年、前畑さんは名古屋市の椙すぎとを体現し続けた前畑さん。ベルリン大会の金メダルはその結晶となった。「優勝できなかったら帰りの船から飛び降りて死ぬしかない」と、自身でも当時の気持ちを振り返っている。
 橋本市古佐田の墓地に「前畑秀子の母」顕彰碑がある。椙山女学園の椙山正まさ弌かず校長が32年ロス五輪前に建立したものだ。しかし、そこには既に「優勝記念」と彫られている。
 橋本市まちの歴史資料保存会の鈴江利夫さんは「椙山校長の前畑さんに対する激励の気持ちがそうさせたのでしょう。もちろん、金メダルの自信もあったのだと思います」と説明。実際に除幕したのは金メダルを獲得したベルリン五輪後だった。

わんどから飛び込む前畑さん(奥)と小島さん

1932年ロス五輪出場メンバーで。守岡初子さん、前畑さん(左から1、2人目)、小島さん(右端)が紀ノ川で育った

水温15度の練習

 当時の前畑さんを、同女学園の9年後輩、中川佐和子さん(96歳、旧姓:岩橋)は「とにかく体が大きく、ガッシリしていたのが印象的」と話す。入学時の中川さんは身長142cm。対する前畑さんは20cm以上高い160cm台。当時の女性としてはかなりの体格だ。
 和歌山市出身の中川さんは、小学6年の夏休みに椙山女学園の水泳部の練習に参加した。その後の和歌山県大会では、50m・100m自由形で大会新記録の優勝。「たったひと月の練習で3年分速くなった気がした」と、椙山女学園への入学を決意。前畑さんが和歌山に帰省した際には、「待っているよ」と声をかけてもらったそうだ。
 入学後は1年半、前畑さんと寄宿舎の同部屋で生活を共にした。授業が終わる3時半から7時半までが水泳部の練習。泳ぐ距離は1日6000~7000mに及んだそうだ。
 練習後は学校から片道40~50分かけて寄宿舎へ戻り、食事、風呂、洗濯などを済ませれば、もう就寝時間。「実は、プライベートで話をする時間はほとんどありませんでした」(中川さん)。
 前畑さんの金メダル効果で、椙山女学園の水泳部には新入生が毎年100人ほど殺到。「ただし、1週間で半分はいなくなります。卒業する頃には1学年5~6人が普通でしょうか」と中川さんは明かす。厳しい練習もさることながら、当時はプールに井戸水を使用。水温は13~15度(一般的には22度以上が水泳に適するとされている)で、中川さん曰く「骨にしみる冷たさ」。あまりに寒いので、プールサイドでお風呂を用意し、プールの水を汲んで朝から沸かしていたという。

ロス五輪前に椙山校長が建てた前畑秀子の母の碑

(ねんりんピック新聞2019in和歌山)

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