話題
水泳に命を捧げた生涯 金メダリスト 前畑秀子 ②
1936年、ベルリンオリンピックの200m平泳ぎで金メダルに輝いた前畑秀子さん。現役引退後は後進育成や、全世代へ水泳の楽しさ・魅力を啓蒙した。80歳まで努力を惜しまず生きた「強い女性」の生涯。
指導者として第2の人生
正彦さんは戦後に岐阜市で病院を開業し、前畑さんも看護師見習いとして手伝う。
しかし59年、正彦さんが50歳で死去。くしくも前畑さんの両親と同じ脳溢血だった。
このとき前畑さんは45歳。そこへ再び手を差し伸べたのが椙山女学園だった。医務室に勤務するようになり、傍ら水泳部のコーチも務め、後進の育成に力を注いだ。
しかし59年、正彦さんが50歳で死去。くしくも前畑さんの両親と同じ脳溢血だった。
このとき前畑さんは45歳。そこへ再び手を差し伸べたのが椙山女学園だった。医務室に勤務するようになり、傍ら水泳部のコーチも務め、後進の育成に力を注いだ。
前畑さんの次男・政時さんの妻、兵頭尚子さんも椙山女学園の水泳部出身。
「授業に出たくない時にはよく、医務室へ薬をもらいに行っていました」と尚子さん。「女学園の中で秀子さんは偉大過ぎる存在。その人が医務室にいるのだから不思議な感覚でした」と振り返る。
前畑さんは67年から、名古屋市で市民向け水泳教室を開講。子供から高齢者まで、幅広い世代に向けて水泳の楽しさや、それを通じた健康づくりなどを積極的に広めた。
「とにかく元気にプールに通ってもらいたいというのがコンセプト。水泳の普及はメダリストの責務だという気持ちが強かったようです」と述べる尚子さんも、大学卒業後にアルバイトで水泳教室に通った。政時さんと出会ったのもここだった。
岐阜で長男夫婦と同居していた前畑さんは、水泳教室のときによく、名古屋市の尚子さん宅に泊まりに来た。実は尚子さん、前畑さんを「お母さん」と呼んだことがないそうだ。「女学園からの感覚が抜けず、常に『先生』でした。孫ができてからようやく『おばあちゃん』になりました」と笑う。
「授業に出たくない時にはよく、医務室へ薬をもらいに行っていました」と尚子さん。「女学園の中で秀子さんは偉大過ぎる存在。その人が医務室にいるのだから不思議な感覚でした」と振り返る。
前畑さんは67年から、名古屋市で市民向け水泳教室を開講。子供から高齢者まで、幅広い世代に向けて水泳の楽しさや、それを通じた健康づくりなどを積極的に広めた。
「とにかく元気にプールに通ってもらいたいというのがコンセプト。水泳の普及はメダリストの責務だという気持ちが強かったようです」と述べる尚子さんも、大学卒業後にアルバイトで水泳教室に通った。政時さんと出会ったのもここだった。
岐阜で長男夫婦と同居していた前畑さんは、水泳教室のときによく、名古屋市の尚子さん宅に泊まりに来た。実は尚子さん、前畑さんを「お母さん」と呼んだことがないそうだ。「女学園からの感覚が抜けず、常に『先生』でした。孫ができてからようやく『おばあちゃん』になりました」と笑う。
リハビリにも一切の妥協無し
そんな前畑さんも83年、69歳のときに脳溢血で倒れる。岐阜の温泉病院に入院しリハビリを行ったが、その時の様子を尚子さんは「壮絶だった」と表現する。
「担当の先生が作ったメニューでは満足いかず、さらに負荷のかかるリハビリを自らに課していました。『おばあちゃん、そこまでやらなくていいよ』と言うのですが、『私はまだやれる』と言って聞きません。先生が止めても続けるのです」。
その結果、麻痺は回復し再びプールに戻ることに。本人も「金メダルを獲るより大変だった」と漏らしたそうだ。
「担当の先生が作ったメニューでは満足いかず、さらに負荷のかかるリハビリを自らに課していました。『おばあちゃん、そこまでやらなくていいよ』と言うのですが、『私はまだやれる』と言って聞きません。先生が止めても続けるのです」。
その結果、麻痺は回復し再びプールに戻ることに。本人も「金メダルを獲るより大変だった」と漏らしたそうだ。
95年、急性腎不全のため80歳で息を引き取ったときも「最期まではっきりと会話ができました。とても穏やかでした」と尚子さん。「いつでも自分に打ち克つことを常に持ち、努力を続けた前畑さんを「亡くなるまでアスリートでした」と語った。(了)
(ねんりんピック新聞2019in和歌山)