連載《プリズム》

ヒロシマを語りつづける

ヒロシマを語りつづける

 「『飛行機の音が聞こえる』と同じ班の人が言った。旧制女学校1年生の12歳だった。私たちは爆心から1.5kmの鶴見町で、4人1組で建物疎開作業をしていた。建物の柱に縄をつないで家を引き倒し、廃材を大八車に積んで運び出す仕事だった」。(プリズム2018年9月)

 2001年、厚生労働省「健康福祉祭(ねんりんピック)広島」の際に、初めて当社が発行した「ねんりんピック新聞」に登場いただいた、ヒロシマの語り部、松原美代子さんの記事の冒頭である。今年2月に松原さんは85歳で、平和を願って語り続けた人生の幕を閉じた。

 「空襲警報が解除になったばかりで、『うそじゃ』と思いながら、顔を両手でかざして、まぶしい夏の青空を見上げた。飛来したB29はすでに遠ざかろうとしているのがかすかに判った。その時だった。目の前が真っ赤に光り炸裂した。とっさに体を伏せた。意識を失い、どれだけの時間か、そのまま私は横たわっていた。気がついた時には夜に変わっていた」。

 松原さんはその後、近所のおばさんに助けられ、宇品の山に横穴を掘った救護所に連れて行かれて、4日間生死の境をさまよう。下痢、おう吐、歯茎からの出血。髪の毛も半分が抜けた。「7カ月の治療のあと、私は鏡で自分の顔を見た。母は、代われるものなら代わりたいと嘆き悲しんだ。そんな母を見て、私は母の前で決して自分の運命を嘆くまいと決心した」。

 松原さんは12回の整形手術をし、閉じなかったまぶたが閉じるようになり、曲がった両手の指や腕が伸びるようになった。費用は教会の牧師さんが出してくれた。「翌年、牧師さんの元で、同じような立場の若い女性3人と、目の不自由な双子の2歳児や両親のいない子どもたちの面倒をみるようになった」「その後、平和文化センターで働き、宣教師に教わった英語を活かして、26年間英文タイプを打った」。

 「核に勝者も敗者もない。ただあるのは無だけ。人類はヒロシマ・ナガサキから未来に生きるための教訓を学び取らなければなりません」と、64歳の時、インターネットを通じて、世界に平和をアピールした。ご冥福をお祈りします。

(シルバー産業新聞2018年9月10日号)

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