コラム

富山大空襲、そのとき10歳の少年は

富山大空襲、そのとき10歳の少年は

 1945年のある日、アメリカ軍の爆撃機が富山市を空襲した。佐藤進さん(83歳)は当時10歳。家に帰ると、焼け跡だけが残っていた。2001年、地元の小学生から「戦争の話をしてほしい」と頼まれ、富山大空襲を語り継ぐメンバーとなる。

二時間におよぶ空襲

 1945年8月2日未明、アメリカ軍の爆撃機174機が2時間にわたって富山市の市街地を空襲した。現在の富山城址公園付近を標的に1万2000発以上の爆弾を投下。99.5%が焼失し、民家は全て破壊された。富山市内の死者は約3000人。広島、長崎への原子爆弾投下を除けば、地方都市への空襲として日本最大の破壊率となった。
 佐藤進さん(83歳)は当時10歳、小学4年生で母と兄、妹の4人暮らし。「8月1日の夜10時頃、1回目の空襲警報が鳴った。庭に作った防空壕へ避難したが、空襲は来なかった。新潟の長岡爆撃に向かう米機が上空を通過しただけだった。それで安心してしまったのかもしれない」と振り返る。
 2回目の空襲警報発令から爆撃までは15分ほどだった。4人で慌てて家を飛び出し、近くの小川に向かった。途中、大量の焼夷弾が降ってきて、田んぼに身を隠した。布団を被ってじっとしていると、焼夷弾が周りを焼き始めた「もう、死ぬと思った」と佐藤さん。幸運だったのが、田んぼが水でやわらかくなっていたこと。燃えるスピードが遅かった。すぐさま近くの小川へ走り、飛び込んだ。母親は腰を抜かしていたそうだ。その直後、焼夷弾の炎が田んぼを覆いつくした。

焼け跡から始まった戦後

 2時間の空襲が終わり、家に戻ると焼け跡だけが残っていた。幸い、井戸水が使えたので、しばらく身を寄せて生活した。「近所の農家のおばさんが、きなこをまぶしたおにぎりを作ってくれた。これがとても美味しかったのを今でも覚えています」(佐藤さん)。
 将来の夢はパイロットだった佐藤さん。「いわゆる軍国少年で、国のために命を奉げたい、というのが当たり前の感覚でした」と話す。バスターミナルにはチャーチル英首相やルーズベルト米大統領の似顔絵が描かれ、バスを待つ間、それを皆で踏みつけた。
 終戦後、流れるようにアメリカの文化が入ってきた。「敵視していた気持ちが急におさまったわけではありませんが、とにかく映画やジャズ、こうしたものが全部凄いと感じました」と佐藤さん。中学校では生徒会役員を務め、GHQが民主化のチェックに来た際の応対もした。

戦争の全てを伝える

 佐藤さんは2001年より「富山大空襲を語り継ぐ会」のメンバーとして講演活動を開始。町内会長を務めていた頃に、地元の小学生の女の子から「戦争の話をしてほしい」とお願いされたのがきっかけだった。これまでの講演回数は200回近くを数える。
 話をする上で佐藤さんが大切にしていること。一つは、富山大空襲の部分だけを切り取るのではなく、太平洋戦争から終戦までの流れを刻々と伝える。もう一つは、日本は戦争の被害者でもあり、同時に加害者でもあること。「太平洋戦争による中国・東南アジアの犠牲者は1500~2000万人。こうした事実も踏まえた上で、絶対に戦争をしてはいけないということを、伝えていきたい」

(ねんりんピック新聞2018in富山)

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