連載《プリズム》

日本のいちばん長い日

日本のいちばん長い日
 夏休みだった。封切りの翌年8月、再上映を待って、田舎の駅前の映画館で三船敏郎や加山雄三が出た「日本のいちばん長い日」(1967年、岡本喜八監督)をみた。うだる暑さの中、クーラーの利きのわるい館内でぱらぱらの観客の中に混ざった。半藤一利さんのノンフィクションの映画化。日本は、無条件降伏を迫る連合軍のポツダム宣言を無視し、広島、長崎に原爆投下される。三船は宣言受諾に反対する将校らを抑え自決する阿南陸軍大臣、加山は終戦の玉音放送を録音する放送局のアナウンサーの役を演じていた。2015年には、原田眞人監督によるリメイク版がある

▼市民球団広島カープの設立には、廃墟と化した広島の明日への希望が託されていた。その頃、プロ野球は50年から2リーグ分裂が決まり、それまでも多数の名選手を生んできた広島では、政財界こぞって新球団設立に向けて活動していた。「広島カープの設立は1950年です。私ら、県民に作ってもろうたと思っとります」。球団設立から7年間在籍したキャッチャーの長谷部稔さん。初代監督の石本秀一さんはオーナー会社がなく資金の乏しい中で選手集めに奔走、長谷部さんも新人テストで入団した。51年、2度目のシーズンを前に財源は底をつき、ホーム球場がなく試合成績も悪かったカープは、連盟から球団解散を迫られた。長谷部さんらは練習が終わってから街頭でカープののぼりを立て同僚と鉛筆を売ったり、石本さんに付いて映画館や劇場をめぐり、炭鉱節を歌ってカンパや後援会への入会を募った(「県民に恩返し カープOB会軟式野球部」2001年ねんりんピックひろしま新聞より)

▼その後も長谷部さん(91)はずっとOB会に関わり、宇品の公民館で修学旅行生に球団の歩みなどを話してきた。いまはOB会活動からは身をひいたが、元気でいらっしゃる。戦後78年、日本は憲法9条を掲げ、経済や文化の国際化を抑止力にして平和を維持してきた。時に、立ち止まって平和を考える。ウクライナでは戦闘が止まない。長い戦後は続いている。
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