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ヤタガラスが日本サッカー協会のシンボルになった理由

ヤタガラスが日本サッカー協会のシンボルになった理由

 日本にサッカーを広めた中村覚之助は、和歌山の出身だった。この中村にちなんだマークを探し求め、日本サッカー協会が辿り着いたのは和歌山の熊野。この地には三本足の「ヤタガラス」、そして蹴鞠(けまり)にまつわる伝承があった。(ねんりんピック大会2019年in和歌山)

日本サッカー 生みの親 中村覚之助

 和歌山県那智町(現那智勝浦町)出身の中村覚之助(明治11年―39年)は、嘉納治五郎が校長を務めていた東京高等師範学校の卒業生で、日本にサッカーを広めた人物である。
 明治35年(1902年)、覚之助は東京師範4年の時、フットボール部を創設。これが現在のサッカーの日本での始まりとされる(写真1)。
 写真1 中村覚之助

 写真1 中村覚之助

 写真提供=那智勝浦町役場総務課に勤める中村寿夫さん(中村覚之助は寿夫さんの曾祖父の弟にあたる)

三本足のヤタガラス

 「日本サッカー協会ができて、昭和31年(1931年)、協会のマークを創ろうという話になり、中村覚之助にちなんだものにすることになった。覚之助が生まれたのは、那智町浜ノ宮。熊野の浜ノ宮は、日本書紀や古事記に現れる神武天皇東征の伝説で、大阪から海伝いに南下して上陸した熊野の地。そこから大和の飛鳥あたり(奈良・橿原)をめざした際に神武天皇の道案内をしたのが、三本足のカラス、八咫烏(ヤタガラス)だった」と、和歌山県世界遺産センターの柴原寛さんは説明する(写真2)。
 咫とは、親指と中指を広げた長さを指し、八咫烏は「大きいカラス」という意味とされる。三本足は、天・地・人を表すとも。
 熊野は、平安時代の蹴鞠(けまり)の名人と言われた藤原成通が技の奉納に訪れたとも云われる(写真3=那智大社の御札)。
 写真2 

 写真2 

 日本サッカー協会の旗にあしらわれた八咫烏のエンブレムを紹介する柴原寛さん。

 写真3 「熊野那智大社牛王神符」

 写真3 「熊野那智大社牛王神符」

 「カマドの上(現今はガスの元栓)にまつれば火難をまぬがれ、病人の床にしけば、病気平癒となる」という御札

 「ワールドサッカーになると、監督さんなど協会関係者が優勝祈願に来られます」 
 柴原さんもサッカーは小学校から親しみ、指導に訪れた往年のストライカー、釜本邦茂選手のヘディングシュートに魅入ったと言う。

(ねんりんピック新聞2019in和歌山)

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