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財政難乗り越え「下松」の名を残す 井川成正市長

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 山口県東部に位置する下松市(人口5万6,000人)は、蒸気機関車の時代から日立製作所が鉄道車両生産拠点を構えた「新幹線の生まれるまち」として名を馳せてきた。

 下松市は1976年に23億円の債務を抱え財政再建団体に指定。周辺自治体との合併問題など市存続の危機に幾度とさらされてきた。これに真正面から立ち向かったのが井川成正現市長だ。「やるつもりは全くなかった」と本人が話す市長職も4期・16年目を迎え、85歳は現役市長で全国最高齢となる(2015年10月時点)。

人の出会いが人生を変える

 井川市長は1930年、5人兄弟の末っ子として生まれた。2歳のときに父親が病気で他界。貧しい生活ながら、母親の温かい愛情ひとつで育てられた。

 高等小学校卒業後、某企業の笠戸工場へ3年間勤務。戦時中だったこともあり8,000人余りの従業員が働いていた。その後、家具店で家具職人としての腕も磨いた。目の前のテーブルを指し「こういうものなら簡単に作ってあげますよ」と笑って話す。

 67年、主に鉄道車輌や産業プラント装置などの部品製造の工場、「清和工業」を設立。このときは政界進出など夢にも思っていなかったという。人生の転換期となったのは、某企業のトップからの忘れられない一言だったという。

 「これからは企業さえ良ければいい時代ではない。企業と地域と行政が一体感を持って働き、まちを盛り上げていかなければならない。それを君達に託したい」。これを受け74年の市議会選に立候補の3人が見事当選。中でも、トップ当選を果たす。

財政破綻・合併問題を乗り越え市長に

 市議2年目の76年、同市はオイルショックの余波で財政破綻に陥る。23億3,000万円の債務を抱え、財政再建団体に指定された。

 井川さんは財政再建対策委員を務め、7年かけてこれを返済。市政における財務的視点の重要性を思い知り、「市民の尊い税金を1円も無駄にはできない」と戒める原点になった。

 市議会議長に着任した92年には、周辺自治体との合併案が浮上。井川さんは終始慎重な姿勢を貫き、合併調査特別委員会を任意で設置。委員長を務め、合併による財政面のリスクを主張し続けた。

 「合併特例債(事業費の95%まで借入可能な地方債)による事業再建をめざす声が多かったが、借金を作ることに変わりはない。また、人口30万人都市になれば企業規模問わず特別企業税が課せられる。中小企業はつぶれてしまう」。

 しかし、推進派の旗色を変えるには至らなかった。議員を辞めることも考えたという井川さんに、当時の仲間がこう言葉を掛けた。「どうせ辞めるなら、市長選に出よう。これで大義名分がたつ」。

 2000年の市長選に出馬した井川さんは、3500票差で現職を破り当選。ここに井川成正市長が誕生した。「議員になった時もそうだったが、運命は自分で決められるものではないと、つくづく感じた」と語る。

 翌年の12月26日、合併期日の決定日に法定合併協議会を「審議不十分」と途中退席したのは有名なシーン。同市は単独市政を邁進する方向へ舵を切った。

職員の意識改革にメス

 下松市は現在、県内トップの自主財源比率62.2%、財政力指数0.8を誇る。東洋経済新報社の「住みよさランキング2015」では全国791市中20位、中四国・九州では1位。高齢化率が30%を超える山口県内で唯一、人口増を遂げている。

 これらは井川市長が「自主自立」の考え方のもと進めてきた市政改革の賜物。なかでも徹底したのが職員の意識改革と財政改革だ。

 市民、来客に対し笑顔での挨拶を基本に、親切・丁寧・迅速な応対を教育。モットーである「微笑みに勝る化粧なし」を実践してきた。市内の学校に赴任したある校長は、住民票を取りに来た際「ようこそ下松市へいらっしゃいました!」と声を掛けてくれたことが印象的だったと話す。

 あわせて、13年間で96人の職員を削減。約96億円の人件費カットに成功した。「ただ単に減らすだけではなく、パートや嘱託を雇用し、無駄をなくした」と同市長。「何より、職員一人ひとりの業務の効率化に依るところが大きい」と説明する。

 好きな言葉は「人間の能力に大差はない。あるとすれば、それは根性の差である」。

 これまで大きな病気にはかかったことがない。企業時代に没頭したゴルフも、市長になってからはわずか7回。「土日の畑作業が唯一の健康づくり」だと話した。

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