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萩往還ウォーク 魅せる語り部の歴史余話と民俗話

萩~山口~防府 歩いて健康充たす知識欲

幕末の志士たちも通った

 萩往還(はぎ・おうかん)は、山口県内の陰陽の道、山口市をはさんで、日本海側の萩市と瀬戸内海側の防府(ほうふ)市を結ぶ全長53㎞の道のりである。往還とは道を行き来することや、主要な街道をいう。関ヶ原の戦いで敗れて中国全土から長州(長門)と周防の2国の大名に格下げとなった毛利氏が、居城としてあてがわれた寒村の萩から瀬戸内にでる最短距離を整備した。参勤交代の御成道であり、物資を運ぶ経済や日常の生活の道として、江戸期には人々がはげしく往来をした。

 山好きだった元県職員の久保正人さん(68歳)が始めて萩往還を歩いたのは1975年、いまから40年前だった。「もう無茶苦茶」の荒れ放題、草木が生い茂り、どこが道だがまったく分からならない。県は82年になって史跡として石畳など萩往還の整備を始めた。今日ではマラソン大会や健脚向きのツアーも開かれているが、萩市と山口市の間は静かな山道である。久保さんの軽四トラックに乗り、萩の出発点、幕府や藩からの「御触」(お達し)が掲げられた高札場を出て、かつては三田尻と呼ばれた防府をめざした。

 「日本は庶民が文字を読めるまれな国でした。高札場には田畑を荒らすな、キリシタンのこと、忠孝に励むこと、偽薬の禁止、百姓は酒・茶を飲むな、米は少なく雑穀を、衣類は木綿とし絹は不可などと掲げられていました」

 参勤交代では、江戸までの1,000㎞余りを30日間で歩き通した。山口で一泊し、2日をかける萩往還は、江戸までで最も楽な行程だったらしい。

 久保さんら萩往還の語り部は、道中にある路傍の石柱や土塁、神仏などから、地域の暮らしやこの道を往来した人々の歴史をひもとくナビゲーターとして活動している。

 関ヶ原の戦いに敗れて徳川幕府に領地の大半を没収された長州藩は、倒幕へエネルギーがみなぎっていた。第13代藩主の毛利敬親(たかちか)は、家臣からのお伺いがあると「そうせい」と肯定するので「そうせい候」と称されたという話を久保さんは紹介して、「長州藩には、ボトムアップの気風があった」と、軽トラを道幅いっぱいに操りながら話した。

 いまも山口では「松陰先生」と呼ばれる吉田松陰が福島の会津藩を訪れた時、その身分社会ぶりをみて驚き、長州藩との違いを悟ったと言う。そうした藩の気風は、松下村塾など自由闊達な青年武士たちの活躍に息づいた。NHK大河ドラマ「花燃ゆ」に登場する幕末の志士たちも、足早にこの萩往還を通り過ぎたのだろう。薩長を結びつけた坂本龍馬もこの道を歩いている。

 現存する一里塚が2カ所ある。小石を積み上げた土塁に標識が建つ簡素なものだ。萩往還は12里53㎞が公式的な距離表示とされるが、久保さんが実測したところ、56㎞あったと言う。「1里を4㎞とすれば、12里で48㎞。53㎞にしろ56㎞にしろ、1里は4㎞より長く測っていたのでは」と考える。久保さんは車測と実測による「萩往還道行程表」(久保私案、左図参照)を作っている。

 基点となる萩の唐樋札場(からひふだば)跡を出発しクラッシックなJR萩駅を過ぎると、やがて山道になる。萩のまちが最後に見える「涙松」に着く。そこは出会いと別れの場、街道沿いに植わっていた松が涙に濡れた。松陰は幾度となく萩往還を通っているが、安政の大獄で江戸送りとなった時に、「かえらじと思いさだめし旅なれば、一入(ひとしお)ぬるる涙松かな」の一首を詠んでいる。

 道はここから倅坂峠(標高146m)、中ノ峠(405m)、板堂峠(最高地点、537m)を通って山口まで30㎞の道のりだ。自然が深く、いまも熊や猿、鹿が出るそうだ。農作物を守るためのネットが張られたところもある。取材当日にはイノシシの子、うり坊が横じま姿で私たちの前を横切った。明治になって萩往還に取って代わり、隧道(トンネル)とともに整備された国道262号線がつかず離れず、時に迂回して側を走る。この日はあいにく台風が接近していたが、天気が良ければ、萩往還には陽光が降り注ぎ、涼風に身を任せながら森林浴が楽しめたにちがいない。

 道中、明木市(あららぎいち)と佐々並市(さざなみいち)の集落を通る。宿場であり、御茶屋や、継立(駅、人馬を乗り継ぐ中継地点)があった。江戸期の建物は現存していないものの周囲の歴史的な景観が評価された佐々並は、木曽の妻籠や埼玉の川越などと同様に、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。1日1組の客だけをもてなす宿や清水で素朴な豆腐を作る店など、萩往還を訪れる人々には気になるところだ。

 「昔は、わらじとお茶で5文だったそうです。1文は20円程度でしょうか。きんちぢみ、と呼ばれた冷たい水やトコロテンが疲れを癒やしたのでしょう」

 「当時、藩の民政は、大庄屋、庄屋、畔頭の組織で行われていました。藩命の徹底や地域の陳情などを処理し、藩には迷惑をかけない仕組みだったのです。農民の面倒をみるあまり、つぶれた庄屋もあったようです」と久保さん。戦前には町内に自治組織などがあり、いまも各業界は事業者団体に取りまとめさせるなど、民は民に治めさせるという行政の手法は昔から続いている。

最高峰は537m

 道中の中間点に近い最高地点の板堂峠には、長州藩の2国、「北・長門国阿武郡」と「南・周防国吉敷郡」と、2方に刻まれた石の「国境の碑」が建てられている。文化5年(1808年)の建立だ。3年前に萩市が管理する「萩往還夏木原交流施設」がその近くにオープン。無料休憩のほか、2段ベッドの宿泊室(有料、シャワーつき、食事なし)がある。板堂峠からは山口へ下りの道になる。

藩財政の確立のために、長州藩は「三白政策」といって、米、塩、紙を重点的に増産した。長州藩の基金である撫育方(ぶいくかた)の話を聞いた。中興の祖とされる第7代藩主、毛利重就(しげたか)は、藩の財政を強固にするため、新たに検地(土地の調査)をして増えた石高を、普段はため込んで干拓の開発などに使った。この基金が倒幕の資金にもなり、今年7月「明治日本の産業革命遺産」として世界遺産の指定を受けた萩の反射炉(1855年)や恵比須ヶ鼻造船所(1853年)跡などにも使われた。鉄を精錬し軍艦を造って出没する外国船や倒幕に備えようとした。

 しかし「農民にとっては厳しく税を取り立てられたわけで、天保2年(1831年)の小鯖に端を発した一揆は防長全土に拡大し、多くの犠牲者を出して終息しました」

 一生に一度はお伊勢参り。民俗学者の宮本常一によれば、当時、年間450万人が全国から伊勢詣でに出かけたという。「江戸時代は厳しさと緩さが混在した社会で、庶民はお伊勢さんなど神仏詣を名目にした旅が楽しみでした。地域の伊勢講に入り、お金を貯めては順番を待ったのです。寺は行政の末端組織として身分を示す札を発行し、人々はその札を身分証明として諸国をめぐった」と言う。旅行用心集が出版されたり、旅行手配師もいたという。今で言えば、ガイドブックとツアー会社にあたる。

「しかし日本は当時から安心安全な国で、9歳の子どもが江戸までひとりで行ったという記録も残っています」

 かつて6軒の農家が旅人をもてなした「六軒茶屋」を経て、山口に着いた。庭園の古池に姿を映す国宝浄瑠璃寺五重塔(1442年)が秀逸である。室町時代に作られたもので、日明貿易で財力を築いて「小京都」をめざした大内文化の最高傑作とされる。無料で拝観できるのもうれしい。

 五重塔の傍らには、山口の豪商、阿部家の別邸だった「沈流亭(ちんりゅうてい)」が移築されている。ここで、薩長同盟による討幕会議が開かれ、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、小松帯刀らが出席している。150年ほど前に、ここで天下国家が論じられ、命がけの戦いに臨んだ若者がいたことに感無量になる。

 山口から防府は舗装道路を歩く。婦人病に効能がある柊神社、馬を頭につけた馬頭観音、禅昌寺、鯖山峠、奈良の東大寺に巨木を運んだ佐波川、防府天満宮を経て、萩往還の最終地、御舟倉に着いた。海路で大阪や九州、四国へ渡ることができる。

 「往還沿いには、歴史の数々だけでなく、道祖神、地蔵、観音、役行者などが数多く地域の暮らしと一体になっています。平素見慣れた神仏ですが説明するとよく聞いてもらえます。萩往還を、私たち語り部とともに楽しく歩きましょう」

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 82年に県が荒れ放題だった萩往還を整備した

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山口の大内文化の象徴である国宝浄瑠璃寺五重塔

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板堂峠にある長門国と周防国の国境の碑

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石畳は至るところでみられる

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実際に使われていた石風呂。中で草木を炊いて蒸し風呂にした

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宿場・佐々並にいまもある豆腐。清水で作られ喉ごしがよい

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豊富な知識と健脚を誇る語り部の久保正人さん

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