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原爆被災者協議会 森内實さん 被爆体験を語る

長崎原爆被災者協議会 2.jpg それは、8歳の夏休みだった。友達2人とセミ取りに。森内さんが柿の木に登り、てっぺんに着いて空を見上げたその時、ピカーッとすごい光線が光った。一瞬、太陽が何かなったのか、と思った。どのようにして降りたのかは全く覚えていないが、下にいた友達に「伏せろ」と叫んだのは記憶にある。両手で目と耳を押さえて伏せた、その時、今度はゴーンという大爆音とともに爆風がやってきた。伏せた体の上にいろんなものが乗ったのが分かったが、怖くて動かられなかった。

 しばらくして光のあった方向をみると、雲が黒くモクモクと上がっていくのが見えた。被爆したのは、長崎市の隣の長与村(現在は長与町)で爆心から4.8㎞。柿の木から200mの自宅に戻ると、ガラスは割れ、家財道具はガタガタ。お母さんは、「長崎の親類に片付けに来てもらえ」と言ったが、逆に長崎にいた親類が次々と避難してきた。

 父方の叔母が3歳の子を背負い5歳の子の手を引いてたどり着いた。2人の子どもは赤黒く焼けただれ、服も皮膚も分からない状態。3歳の子は「水、水、水」といって息を引き取った。16歳の兄は、報国隊から工場に動員されていたが、爆心地を通って帰ってきた。路上は死体とうめく人であふれ、「地獄のようだった」という。父方のいとこの医学生は、家の下敷きになったが、かすり傷ひとつなく帰ってきたが、数日後口から汚物を10㎝くらい3度吹きあげて息を引き取った。放射能で腐った内臓だということだったが、ものすごく臭いものだった。お父さんは全身真っ赤になって、鼻血が止まらないで戻ってきたが、家に着いた途端ばったりと倒れた。幸い、回復したが、周りの人が次々と亡くなっていく状況でも、「不思議と涙も出なかった」。人間はあまりにつらいことがあると、夢でも見ているように放心状態になり、涙どころではなくなるそうだ。

 戦後は、原爆被災者の会や原爆禁止運動にあまり深く関わってこなかったが、2003年に原爆症認定を求める全国の被爆者306人の原爆症集団訴訟の長崎の原告45人の団長、全国の副団長を務めた。「45人のうち元気なのは私だけだったから」と謙遜されるが、元気な人ばかりではない難しい裁判を7年後に勝訴で終わらせた手腕は高く評価された。

 自身の体も原爆の影響があり、大腸がんや進行性悪性の胃がんが発病し、「原爆は憎い」と思ったという。父親も姉も腎臓がんや乳がん、肝臓がんを患い、被爆者のがん発病率はかなり高い。

長崎原爆被災者協議会 .jpg

 3年前から、長崎原爆被害者協議会の被爆体験を語り継ぐ会に加わり、被爆体験講話を担当している。この日も熊本の修学旅行の小学生64人を前に自身の体験を中心に1時間余り熱っぽく語りかけた。森内さんの初めて聞く衝撃的な話を、私語を挟まずジッと聞き入る小学生たちの姿は、感動的であった。

 森内さんは、「今子どもに話すことが一番やらんといかんこと、それで原爆のことが継承していく」と語り、「どの子どもたちも1時間余りジッと聞いてくれるが嬉しい」。講話は、修学旅行の小中学生が多いが、長崎を離れて出張での依頼もあり、被爆高齢者にはきつい仕事でもある。講話を担当する人も20人くらいいたが、今では14人くらいに減り、しかも80歳以上の人が多く、高齢化が進む。

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